一次資料の大切さ

早くも12月になりました。
今年はコロナで明けコロナで終わるという感じで、あっという間に師走です。
一医療機関としては消毒に次ぐ消毒で今年も暮れたという感じです。
幸いアメリカのファイザー社からワクチンが出るようなので、
少しだけ光が見えたのかもしれません。

さてそれにつけても私が最近思うのは報道があてにならないなあということです。
コロナの問題しかりアメリカ大統領選の報道しかり、とにかく各報道機関により報道の仕方がまちまちです。

テレビ、新聞、雑誌、インターネットでも情報が錯そうしています。
何が本当なのかよく分かりません。

結局報道している方も人間なので、結局その人を通して情報を知ることになり、事実そのものではない可能性があります。
もちろんすべての現場に私たちが立ち会えば事実はかなり把握できるでしょうが、そんなことは不可能です。

ということはすべてのニュースは何らかのフィルターを通したあとの事実ということになります。

それではフィルターを通さないで直接知ることは出来ないのかというと、それはやはり芸術作品などに限られてくるのではないかと思います。
つまり一次資料である原典に直接あたるということです。

芸術作品は一次資料そのものです。

何か間にあるフィルターを通して絵をみたり小説を読んだり音楽を聴いたりしているわけではありません。直接芸術家の作った物に触れることが出来ます。
というつもりで私は小説などをよく読んでいます。

そしてその感想は全く自分自身のものです。
他の人がこう言ってるからとかは関係なく自分自身の感想を持つことが出来ます。

ここが芸術作品に触れる良いところです。
例えば川端康成の「雪国」が出版社によって違うということはありません。
誰が呼んでも「雪国」は一つです。

ここが一次資料たる所以です。

ちなみに私は冬になるとどういう訳か「雪国」が読みたくなります。
越後湯沢の冬の風景が旅情を誘うからでしょうか・・・・。

さて読者の皆様にはコロナになんかならないように、どうぞ体に気を付けてお過ごしください。

今年一年ありがとうございました。

よいお年をお迎えください。